雨は前よりも激しくなっていた。私はしばらくの間市民会館の外に出ることを諦めた。ホールにはほとんど人がいなかった。これは自分を含めての『ほとんど』であり、要するに私のほかに誰もいなかった。上着のポケットを探ると、豪華にふくらんだ財布とミントガムがでてきた。私は財布から小銭を一枚取り出すと、自動販売機に投入し、ホットココアを買った。紙コップの飲み物だったので百円で済んだ。私はそれをこぼさないように注意して手にとった。ココアは思ったよりも熱かったが、ゆっくり時間をかければどうにか飲めそうであった。私はゆっくりとした動作で近くのテーブルについた。
私はメモ帳とペンを取り出した。元来私は物覚えが悪いほうなので、何か大事なことを書き留められるように外出の際は常にどこかポケットに忍ばせておくことにしているのだ。今回メモ帳を必要としたのもそういった理由なので、私はとても有用な習慣を持っていると言っても過言ではないだろう。さて、その理由とは勿論、先ほどの合唱団を見て受けた感銘を書き留めるためだ。どんなに素晴らしかったか、私は感動が薄れる前に書き留めたかった。だがペンを握った手はいっこうに動かない。私が受けた感動は果たして書き表せる物なのか、書いてしまったら陳腐な物になってしまわないだろうか。私は長々と考えた挙句、最初の一文字も書かずにメモ帳とペンを片付けた。雨は少し小雨になったようだった。
私がココアを飲み終わらないうちに、先刻、合唱団の中で、私の目と耳を引き付けたあの少女がやって来た。衣装の代わりに、秋色めいた大人しめの服に黒のロングブーツという出で立ちだった。彼女は軽い足取りで自動販売機に向かい、ちいさなピンクの小銭入れから百円を取り出し、それでもってドリンクを買った。両手でガラス細工を扱うように持ってそろそろとこちら側、テーブルに向かってきた。私は彼女の一連の動作を食い入るように見つめていると、いきなり彼女の目とあった。私は慌てて目を逸らそうと考えたが、それは逆効果を生むことに繋がるのではないかと思った。結局目を逸らさなかったら、……彼女は不意にちらりと控えめな微笑を送ってよこした。
控えめにちらりと浮かぶ微笑が、ときに、奇妙なほど華やかに見える場合があるが、果たしてこの場合もそうであった。私も思わず微笑を返したが、これは華やかという表現には到底及ばないだろう。私はここ数年めったに笑うことがなかったせいで、顔の筋肉を上手く動かせなくなっていたからだ。私はせめて一日一回は鏡の前で笑顔を練習すべきであったと思ったが、今更悔やんでも仕方のないことであった。
少女は私に近づくと、先ほどのような綺麗な声で話し掛けてきた。
「大人はそういった甘い物を飲まないと思ってましたわ」
私は、大人にも甘い物好きはいると答えた。それから、よかったら同席しないかと彼女を誘った。
「それはどうも」と、彼女は言った。「では、お言葉に甘えてご一緒させていただきますわ」
私は立ち上がって、彼女のために椅子を引いた。私の真向かいの椅子である。彼女は椅子に深く腰掛け、背筋をすらりとのばして座った。私は急いで自分の席に戻った、なにしろ今度は私が何かしゃべる番である、そう思ったからだ。しかし、いざ椅子に座って彼女と相対してみると、何を言っていいのか分からない。私は無理やり微笑を作り、内心の混乱を隠そうとした。そして、まったく今日は外出には相応しくない日だ、などと言った。
「ええ、そうですわね」相手は、澄んだ明瞭な声でそう答えた。つまらない世間話なんかが嫌いな人間の口調である。それからテーブルの縁に、三つ指をつくかのように両手をそろえて静かに置いた。その際、首にかけられている鎖が軽く揺れた。おそらくはネックレスかペンダントであろう、淡い銀色が光っていた。
「あなた、うちの合唱団の練習のときにいらっしゃいましたわね」事実を事実として言うような、淡々とした口調で彼女はそう言った。「わたし、お見かけいたしました」
私は、そのとおりだと答えた。そして、みんなの中にまじっていても、彼女の声ははっきりと聞こえたと言った。とても綺麗な声だとも言った。
彼女はうなずいた。「そうなんです。わたし、将来歌手になりたいんです」
「そうですか。ポップスですか?」
「いいえ、ちがいます。テレビでR&Bを歌うんです。それでどっさりお金をもうけるんです。その後引退して、イギリスでお茶を飲んで暮らします」彼女は横髪を手のひらで触ってみた。「あなた、イギリスご存知?」と、彼女は言った。
私は、テレビで見たことはあるが、知っているとは言えないと答えた。そして、ミントガムを一枚差し出した。
「いいえ、結構です。甘い物は、純粋に甘くないと食べる気が起こりません。ミントなんて、私が忌避する物の先端です。眠気覚ましに食べるなんて、愚かと言うより他ありません」
私はガムを差し出した手を引っ込め、しかしイギリスにはミントティーがあると言った。
「知っています。たまに日本でも見かけますからね。一度飲んでみたことがありますが、あまり美味しいとは感じませんでした。ただし、砂糖を入れなければ飲めないこともないですけども」
私はココアを一啜りすると、思いついたように、イギリスにはカタコンベ(地下墓地)というものがあるそうだと言った。
「そうなんです。以前、雑誌の特集で扱っていましたわ。人の口から聞いたのは、あなたが初めてですのよ」
それはそうだろうと私は言った。わざわざ女の子に墓地の話をするような人間は少ない。バッキンガム宮殿やシャーロック・ホームズの話題の方がよほど華がある。
「ええ、ですがそれらは観光地化されているでしょう?イギリス国民とは縁遠いですわ。ご存知かしら?死は万民に平等に訪れるという格言を。なのに死を忌避するなんて愚かしいとは思いません?」
私は彼女の老衰した考えにいささか興味をもった。しかし、そのことを声に出して言うほど私は積極的ではなかった。もちろん、少なからずそれゆえの死にたがりであるのは明白だった。
私は話題を変えようと思い、たまたま目に飛び込んできた物を口にした。
「ところで、向こうの男の子はあなたの知り合いでしょうか?」私は少女の後ろの方で手を振っている幼い少年を指し示した。
「あら、あれは弟のトモキですわ。トモキ、こちらにおいで」
少女はトモキを呼び寄せ、彼女の隣の椅子に座らせた。彼女のゆったりした動作とは対照的に、トモキは少々わんぱくな座り方をする。と思ったら、また立ち上がって私達の周りを走り回った。
「こら、ちゃんと座っていなさい!」彼女はそう言ってトモキを叱った。それでトモキはしゅんとなる。私はそうした二人のやり取りに微笑ましさを感じた。
「トモキは五歳なんです。五歳の男のこって言うとまだ動きたがる盛りでしょう?こうやって度々私が叱らないといけないんです」と言って彼女は苦笑いをする。「すぐに忘れちゃうみたいですけどね」
私も、おぼろげではあるが当時の記憶をたどってみると、五歳の頃は反抗期の盛りであった。そういえば、人生の全てが楽しかった時代があの頃であったように思われる。
「そういえば、まだ自己紹介をしていませんでしたね。私はエミといいます。歳は十四です。……あまり名字で呼ばれるのは好きではないの」
私は名字よりもエミという字をどう書くのか気になったが、残念なことにそのことを訊く勇気というものが私には決定的に欠けていた。そのため私はエミという響きを心の中で反芻するだけであった。気付くとエミが一直線に私を見ていたため、私も自分の名前を言った。
「いつもは私、すごいフレンドリーというわけではないんですよ。こんなふうに、見ず知らずの殿方の席に座るなんて真似を、いつもいつもしているわけじゃないんです。私はそんな尻軽じゃありません。私はそんな手軽じゃありません。普段の私は誰にも感情を表さないし、誰ともまともな会話をしません。化粧の代わりにお面を選ぶ人間なんです。どうです、信じます?」
私は、嘘はついていないと思うと答えた。エミの声質には、無口な人間だけが持つ重々しさが確かに含まれていたからだ。おそらくエミは、気に入った人間には呆れられるくらいに喋って、それ以外の人には何一つ反応を返さないタイプなんだろうと推測した。その気持ちが私にはよく分かった。
「そんな私がどうしてあなたに接触して、どうしてあなたと会話しようと思ったのかを教えるのが礼儀というものでしょう。それは、ただもう、あなたが、とーっても寂しそうだなって思ったからですよ。本当に寂しそう。あなた、いつでも一人でしょう?千人いても一人でしょう?」
私は自分の心を見透かされているようでどうすればよいか分からず、ふと周りを見ると、トモキがいないことに気が付いた。私はそのことをエミに申し出た。
「あら、またどこかに行ってしまったのね。きっと、私達の話がつまらなかったんでしょう。……あぁ、いました。あそこです」
エミが指差した方を見ると、自動販売機があって、トモキはそれに並んでいるたくさんのボタンを押して遊んでいた。私はトモキに近づいて、オレンジジュースを買い与えた。そしてポケットを探り、ガムをあるだけ差し出した。トモキはそれで喜び、またおとなしく席についた。
「すみませんでした、トモキが迷惑かけて。トモキの代わりに御礼を言います」エミは深々と頭を下げた。たいした事はしていないと私が言って、ようやく、エミは体を起こした。
「あなたは優しい方ですね。優しくて、とても不器用。人から御礼を言われるのも誉められるのも、あまり慣れていないでしょう?」
確かに私は人からそういったものを受けることは少ないが、それはただ人に何かをしたことが少ないからだろうと言った。そして、そもそも人と接することが少ないのだと付け加えた。
「そう。でも、そんなことは関係ないのではないでしょうか」エミは静かにそう言った。「慣れ不慣れは、一度経験してしまえば変わってくるものです」
私はよく分からないと返した。私は自分自身のことをたった四割程度しか把握していないであろうと思っている。
「それよりも、そろそろ次の段階に進みたいのですが。つまり、あなたのご職業を伺いたいのです。それとも、私達はまだそこまで仲良しじゃないですか?詮索が過ぎますか?」
詮索が過ぎるときは、はっきりそう言うからと私は答えたが、その瞬間、ならば今すぐ『詮索が過ぎる』と口にしなければならないのではと思った。私に職業の肩書きはなく、それは決して誇れることではなかったし、あまり進んで公開したくなかった。
エミは私を見つめたまま言葉を待っている。このまま沈黙合戦を続けていたら、敗北するのは確実に私の方だ(私は口数が少ないくせに、会話の際に不意にやってくるあの沈黙と言う時間帯が苦手なのだ)。私はココアで唇を湿らせると、無職であると告げた。
「まあ、フリーターなのね」エミは私を馬鹿にしてはいないようだった。「モラトリアムというやつですか?」
私は違うと答えた。どの仕事もしたくないのだとも言った。
「働きたくない、と言うことではないんですよね?あなたは優しいから、優しくないものには耐えられないんだわ。例えば、金融業のような」
私は出来るだけさりげなく、職業に貴賎はないと言った。
「私、昨日生まれた赤ちゃんじゃないんです。それくらい分かってますわ」
私は、それはそうに違いないと返した。
「あなた、仕事だけじゃなくて日常生活も嫌なことばかりでしょう?平安時代の出家僧のように、この世界から逃げたいんじゃないですか?」
そうかもしれない、と私は言った。しかし、私は私のことをよく知っているわけではない。私に関するどんなことも断定することは不可能だ。
「はっきりしてください。生きたいんですか、それとも死にたいんですか」
私はなんとも答えられず、だがエミの視線には耐えられそうもなかったので、小説化になりたかった時期があると言った。
「今も書きつづけてらっしゃいますね」エミは私の指のペンだこをしっかりと見ていた。「未練があるわけではないのでしょう?きっと今この瞬間も、あなたは小説家になりつつあるんだわ」
私はそんな実感はないと言った。それに、ひょっとしたら、小説を書いているのを言い訳に、無職でいることを世間から許してもらいたいのかもしれない。
「優しいあなたのことですから、それはないでしょう。世間が知らなくても、作品は残ります。発表しなくても人のためにはなっていますよ」
私はエミの言葉を一概には信じられなかった。
「嘘でも、信じていると言って欲しいものですけども。……あなたも、何か一つは信頼できる物を手に出来たらいいですね」そう言うとエミはペンダントを私に見せた。
「それがどうかしましたか?」私はエミに問い掛けた。
「祖母が私にくれた物なんです。祖母はオペラ歌手をしていました。このペンダントは、初舞台を含め大事な舞台で身に付けていたものだと聞いています。私はこれから力を貰っている気がするんです」
残念だが私にはエミのペンダントのようにいわくつきの物はないと言った。
「大半の方はそうでしょう。まして、小説家のいわくは物にではなく心に宿るでしょうに。……そうです、いいことを思いつきました」そして、私の目をしっかりと見つめて「いつでもよろしいんですけど、私だけのために短編を書いて下さらない?私、中学生ですので本を読むんです」
私は予想もしなかった言葉に狼狽して、自分は書いた物を誰にも読ませたことがないし、それどころか自分で読み返しもしないのだと早口で言った。
「関係ないわ」エミは簡単に返した。「私はあなたの書いた小説を読みたいと言ったんです。私の主張はそれだけです。もちろん、子供向けの低俗な物など読みたくはないですが。それは大前提ですが。そうですね……どちらかと言えば、汚辱のお話が好き」
私は身を乗り出して聞き直した。
「オ・ジョ・ク。汚辱のお話。私、汚辱って言うものに興味があるの」
私はもっと詳しく問いただそうとしたが、トモキがそろそろ帰ろうと言い出したのでそれは出来なかった。エミが『もう少しだけ』と言ったが、どうやらトモキは合唱の練習が堪えたらしく、眠たそうであった。私はエミに遅くならないうちに帰るよう言った。
「非常に残念ですが、そろそろお暇しなくちゃいけませんね。……近い将来、また、会えるかしら?」
私は、是非そうしたいところだけど、遺憾ながらそうすることは不可能だろうと答えた。
「それって、距離が遠いということ?それとも、死んでしまうということ?」エミは悲痛な面持ちをしたが、ふいに顔を緩めた。「あなた、私のお手紙が欲しい?」エミの顔には真剣さが充満していた。「確かに手紙なんて古風な情報媒体ですが、でも私、この年齢でとても明確な文章が書けるんですよ。私くらいの……」
私はすぐにポケットからメモ帳とペンを取り出し、アパートの住所と部屋番号を書き殴った。そうすることに何の衒いもなかった。
「きっと書きます。ええ、きっと書きますね」エミは紙切れを受け取った。「あなたも、私のための短編を書くのを忘れないで下さいね」
私は、忘れることなど絶対にありえないと答えた。誰かのために短編を書いたと言うことは今まで一度もないけれども、取り掛かれるものなら是非取り掛かりたいと思っていたのだ。
「うんと汚辱的で感動的なものにして下さいね。あなた、汚辱っていうもの、ご存知?」
私は、必ずしも承知しているとは言えないが、これから先、いろいろな汚辱に巡り会うだろうし、エミの要請を満たせるように最善を尽くすつもりだと答えた。
「ありがとうございます。ではまた、会える日まで」エミはそう言うと右手を差し出した。私はエミと同席できてどんなにか楽しかったことだろうと言って握手をした。
エミの手は、私が思ったように細く繊細であった。
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