これからが、その汚辱的なところ、あるいは感動的なところというわけだけど、場面はここで一転する。人物も変わる。私は依然として登場するけれど、これから以降は私の口から明らかにすることを許されない理由によって巧妙に隠れているので、どんなに慧眼な読者でも私の正体を見抜くことは出来ないだろう。
日時は九月十六日。場所は静岡県浜名湖の近くのとある病院の一室である。Zは自分があてがわれた病室のベッドに横たわっていた。前に目を覚ましてから長く経っていたが何もする気が起きなかったため、ずっと寝転んだままでいた。長く伸びた髪を鬱陶しく思っていじってみたが、それにも飽きると小説を開いた。まだまだ序盤だった。昨日から挑戦しているのだが、なかなか進まないのだ。原因は小説にもあるのだろうが、大部分は彼の方にあった。
Zは、死にたがりの青年ではなくなった。
左手首に二本のためらい傷、まだうっすらと残っている首のあざ、どちらも致命傷にはならなかったが、怪我の原因の性質上普通の病院には行けなかった。
Zは体を起こして、窓の側へと移動した。意味もなく震える指を何とか操りながら窓を開け、タバコを抜き取り火をつける。ここに来てからのZはタバコの吸いっぱなしであった。不意に頭に浮かんだ発想を試してみたくなり、残ったもう一本の前歯をタバコのフィルターで軽く押してみた。前歯が危なっかしくぐらつき、口内が塩辛くなる。しかしZは出血にも構わず前歯を押しつづけた。偏執的ですらあった。
すると突然、一切の予告もなしに、自分の精神が極めて激しく動揺する気分に襲われた。それは何度も味わっており、今となっては長年付き合ってきた悪友と会話するような感覚だった。Zは慣れた手つきでまぶたの上を押し付けた。
疲れていた。
眠りたいのだが、それすらも出来ないほどに疲れきっていた。
Zは生臭いあくびをした。歯を磨いていなかったし、看護士に身体を拭いてもらってもいなかった。彼は生き残ったが、生き延びるための行為は呼吸以外に行っていないと言っても過言ではない状態だった。
まぶたから手を離したZは、しばらく目に手をかざした。古臭いロシアの小説が急に恋しくなった。古臭いロシアの小説のページを破って、左手首の傷口に貼り付けたくなった。
「ああもう、この部屋は全くひどいな。お化け屋敷みたいじゃねえかよ。お前さん、知っているか?」
ノックもなしにドアが開かれた。戸口には旧友が立っていた。傷ついたZを発見し、介抱してくれたのだ。いわば命の恩人というわけである。しかし今のZには『それがどうした』という一言だけで片付けられる事実だった。旧友は嫌になるくらいのんびりした足取りで部屋に入り、手に下げたコンビニの袋からコーヒーを取り出した。格好いいとでも思っているのか、プルタブを開け斜め四十五度でコーヒーを口にした。そして香ばしい匂いを病室中にまき散らしながらZの前に腰掛けた。
「なあおい、ちょっと外に出て飯を食わねえか?もちろん食堂だけどよ」旧友は優しい口調で語りかけた。「今のお前さんにゃ、それがつらいってのは分かってるよ。ジボウジキだっけ?そんな状態だかんな。でもよ、外に出なきゃ駄目だと俺は思うんだ。俺だけじゃない、みんな言ってるぜ」
「誰が言ってるって?」
「だからみんなだ。俺が思うに、お前さんは心の傷じゃなくて感覚の……」
「俺の感覚は正常さ」
「お前さん、ちょっとその手を見てみろよ。随分震えてやがるじゃねえか。口も震えてやがるぞ。それに目の下が真っ黒だぜ。全然眠ってないんじゃねえのか」
「細かいとこまでよく気がつく目だね」
「冗談で言ってるんじゃねえぜ。俺は心配してんのさ。お前さんが首くくってるのを見たとき、俺はもちっとで気を失うとこだったんだぜ。なあ、どのくらい体重減ったんだ?自分で知ってるのか?」
「知らんよ」
「なあ、知ってたか?明日はお前が入院してから一ヶ月になるんだぜ」
「もう一ヶ月だって?こんなところにいたんじゃ時間の感覚は無くなるな」
「俺にとっちゃ、まだ一ヶ月、だけどよ。いろいろありすぎて随分長く感じたぜ」
「お前の人生は一ヶ月どころじゃないだろう?今からそんなじゃ、へばっちまうぞ」
「へ、俺にはまだまだやることがあるんでな。一生分の時間使っても足らねえくらいだ。お前もだろう?今はちょっとした休憩でさ」
旧友の言葉を耳にしたZは深く絶望した。そうだ、確かに自分はこんなところにいる。しかしそれは一時的でしかない。すぐにまた汚れに満ちた世界へ飛び込んでいかなくてはいけないのだ。
それを考えると、
「逃げたいな」
そう思った。
「俺たちはこの世界で生きてくしかねえよ。へとへとになりながらな。お前さん、頼むから逃げねえでくれよ。もし逃げたら、俺が悲しくなる。そんなのは、その、嫌だからな」
「安心しろ。こんな身体で逃げられるかよ」
Zは病院服を見せた。
「おい……」旧友は驚いた表情でZを見守っていた。「どうしてそんなにピクピクしてんだよ」
「気にするな」
Zは手を当てて頬の痙攣を隠した。
「お前さん、やっぱり感覚がまいちまってるだろ」
「こんな世界にいたら、まいっちまうに決まってるだろうが」
「俺は鈍いから、別に普通だけどな。でもお前さんは繊細だし、頭も良いから……」
「あ?俺の頭が何だって?」
「頭が良いって言ったんだ。気に触ったんなら謝るよ……おい、おいお前さん、どうしたんだ?」
Zは急激な吐き気に襲われた。旧友の言葉を無視してゴミ箱まで駆け寄り、一気に吐いた。ここ数日間何も食べていないので、緑色の胃液しか出なかった。だけどそれは大量に出てきた。
旧友は黙ってZを見つめていた。そして、とにかく一緒に外に出ようぜ、きっと気分転換にもなるし、体にも良いからと言った。
「俺に構わず行ってくれ……」Zは口元をぬぐった。「俺は切手のコレクションを見てるよ」
「お前さん、切手なんて集めてたのか?初耳だぞ。お前さんが……」
「いや、嘘だよ」
「飯が嫌なら、テレビでも見に行かねえか?」
「俺はここで寝てる。いい加減一人にしてくれよ」
「そっか……。じゃあ、おやすみ。なあ、あまり気にかけるなよ。心配して言ってるんだぜ?」
旧友はそれだけ言ってドアを閉めた。
Zはドアを長いこと見つめていたが、やがて椅子に座ると、引出しから原稿用紙と万年筆を取り出した。
こういう気分の時には小説を書こう。
いつものように寂しく悲しい物語を、寂しく悲しい気持ちで書いて、寂しく悲しい気持ちを認識しよう。
そう思ったのだ。
だけど馬鹿みたいに指が震えるせいで万年筆が握れないし、原稿用紙がぼやけて二重に見えてしまい、書ける状態ではなかった。それでもZは文章を書いてみた。もちろん書けなかった。再び嘔吐感がこみ上げてきたが、今回は何とかこらえた。
あのゴミ箱はどうにかしなきゃならんなとZは思った。だけどそれをどうにもすることがなく、原稿用紙の上に伏せて目をつむった。強烈な動悸が始まったのだ。Zが苦しさの中で目を開けたとき、部屋の隅に一つの封筒が置かれているのが見えた。Zは特に興味をそそられたわけではなかったが、苦痛から目を逸らすために封を開けた。差出人の住所すら見ずに。
封筒の中からペンダントが転げ落ちた。
Zは封筒から手紙を取り出してそれを読んだ。
日時は九月十六日。場所は静岡県浜名湖の近くのとある病院の一室である。Zは自分があてがわれた病室のベッドに横たわっていた。前に目を覚ましてから長く経っていたが何もする気が起きなかったため、ずっと寝転んだままでいた。長く伸びた髪を鬱陶しく思っていじってみたが、それにも飽きると小説を開いた。まだまだ序盤だった。昨日から挑戦しているのだが、なかなか進まないのだ。原因は小説にもあるのだろうが、大部分は彼の方にあった。
Zは、死にたがりの青年ではなくなった。
左手首に二本のためらい傷、まだうっすらと残っている首のあざ、どちらも致命傷にはならなかったが、怪我の原因の性質上普通の病院には行けなかった。
Zは体を起こして、窓の側へと移動した。意味もなく震える指を何とか操りながら窓を開け、タバコを抜き取り火をつける。ここに来てからのZはタバコの吸いっぱなしであった。不意に頭に浮かんだ発想を試してみたくなり、残ったもう一本の前歯をタバコのフィルターで軽く押してみた。前歯が危なっかしくぐらつき、口内が塩辛くなる。しかしZは出血にも構わず前歯を押しつづけた。偏執的ですらあった。
すると突然、一切の予告もなしに、自分の精神が極めて激しく動揺する気分に襲われた。それは何度も味わっており、今となっては長年付き合ってきた悪友と会話するような感覚だった。Zは慣れた手つきでまぶたの上を押し付けた。
疲れていた。
眠りたいのだが、それすらも出来ないほどに疲れきっていた。
Zは生臭いあくびをした。歯を磨いていなかったし、看護士に身体を拭いてもらってもいなかった。彼は生き残ったが、生き延びるための行為は呼吸以外に行っていないと言っても過言ではない状態だった。
まぶたから手を離したZは、しばらく目に手をかざした。古臭いロシアの小説が急に恋しくなった。古臭いロシアの小説のページを破って、左手首の傷口に貼り付けたくなった。
「ああもう、この部屋は全くひどいな。お化け屋敷みたいじゃねえかよ。お前さん、知っているか?」
ノックもなしにドアが開かれた。戸口には旧友が立っていた。傷ついたZを発見し、介抱してくれたのだ。いわば命の恩人というわけである。しかし今のZには『それがどうした』という一言だけで片付けられる事実だった。旧友は嫌になるくらいのんびりした足取りで部屋に入り、手に下げたコンビニの袋からコーヒーを取り出した。格好いいとでも思っているのか、プルタブを開け斜め四十五度でコーヒーを口にした。そして香ばしい匂いを病室中にまき散らしながらZの前に腰掛けた。
「なあおい、ちょっと外に出て飯を食わねえか?もちろん食堂だけどよ」旧友は優しい口調で語りかけた。「今のお前さんにゃ、それがつらいってのは分かってるよ。ジボウジキだっけ?そんな状態だかんな。でもよ、外に出なきゃ駄目だと俺は思うんだ。俺だけじゃない、みんな言ってるぜ」
「誰が言ってるって?」
「だからみんなだ。俺が思うに、お前さんは心の傷じゃなくて感覚の……」
「俺の感覚は正常さ」
「お前さん、ちょっとその手を見てみろよ。随分震えてやがるじゃねえか。口も震えてやがるぞ。それに目の下が真っ黒だぜ。全然眠ってないんじゃねえのか」
「細かいとこまでよく気がつく目だね」
「冗談で言ってるんじゃねえぜ。俺は心配してんのさ。お前さんが首くくってるのを見たとき、俺はもちっとで気を失うとこだったんだぜ。なあ、どのくらい体重減ったんだ?自分で知ってるのか?」
「知らんよ」
「なあ、知ってたか?明日はお前が入院してから一ヶ月になるんだぜ」
「もう一ヶ月だって?こんなところにいたんじゃ時間の感覚は無くなるな」
「俺にとっちゃ、まだ一ヶ月、だけどよ。いろいろありすぎて随分長く感じたぜ」
「お前の人生は一ヶ月どころじゃないだろう?今からそんなじゃ、へばっちまうぞ」
「へ、俺にはまだまだやることがあるんでな。一生分の時間使っても足らねえくらいだ。お前もだろう?今はちょっとした休憩でさ」
旧友の言葉を耳にしたZは深く絶望した。そうだ、確かに自分はこんなところにいる。しかしそれは一時的でしかない。すぐにまた汚れに満ちた世界へ飛び込んでいかなくてはいけないのだ。
それを考えると、
「逃げたいな」
そう思った。
「俺たちはこの世界で生きてくしかねえよ。へとへとになりながらな。お前さん、頼むから逃げねえでくれよ。もし逃げたら、俺が悲しくなる。そんなのは、その、嫌だからな」
「安心しろ。こんな身体で逃げられるかよ」
Zは病院服を見せた。
「おい……」旧友は驚いた表情でZを見守っていた。「どうしてそんなにピクピクしてんだよ」
「気にするな」
Zは手を当てて頬の痙攣を隠した。
「お前さん、やっぱり感覚がまいちまってるだろ」
「こんな世界にいたら、まいっちまうに決まってるだろうが」
「俺は鈍いから、別に普通だけどな。でもお前さんは繊細だし、頭も良いから……」
「あ?俺の頭が何だって?」
「頭が良いって言ったんだ。気に触ったんなら謝るよ……おい、おいお前さん、どうしたんだ?」
Zは急激な吐き気に襲われた。旧友の言葉を無視してゴミ箱まで駆け寄り、一気に吐いた。ここ数日間何も食べていないので、緑色の胃液しか出なかった。だけどそれは大量に出てきた。
旧友は黙ってZを見つめていた。そして、とにかく一緒に外に出ようぜ、きっと気分転換にもなるし、体にも良いからと言った。
「俺に構わず行ってくれ……」Zは口元をぬぐった。「俺は切手のコレクションを見てるよ」
「お前さん、切手なんて集めてたのか?初耳だぞ。お前さんが……」
「いや、嘘だよ」
「飯が嫌なら、テレビでも見に行かねえか?」
「俺はここで寝てる。いい加減一人にしてくれよ」
「そっか……。じゃあ、おやすみ。なあ、あまり気にかけるなよ。心配して言ってるんだぜ?」
旧友はそれだけ言ってドアを閉めた。
Zはドアを長いこと見つめていたが、やがて椅子に座ると、引出しから原稿用紙と万年筆を取り出した。
こういう気分の時には小説を書こう。
いつものように寂しく悲しい物語を、寂しく悲しい気持ちで書いて、寂しく悲しい気持ちを認識しよう。
そう思ったのだ。
だけど馬鹿みたいに指が震えるせいで万年筆が握れないし、原稿用紙がぼやけて二重に見えてしまい、書ける状態ではなかった。それでもZは文章を書いてみた。もちろん書けなかった。再び嘔吐感がこみ上げてきたが、今回は何とかこらえた。
あのゴミ箱はどうにかしなきゃならんなとZは思った。だけどそれをどうにもすることがなく、原稿用紙の上に伏せて目をつむった。強烈な動悸が始まったのだ。Zが苦しさの中で目を開けたとき、部屋の隅に一つの封筒が置かれているのが見えた。Zは特に興味をそそられたわけではなかったが、苦痛から目を逸らすために封を開けた。差出人の住所すら見ずに。
封筒の中からペンダントが転げ落ちた。
Zは封筒から手紙を取り出してそれを読んだ。
親愛なるZさま
私達の文通を始める最初のお手紙を書くのにちょっとばかり時間がかかってしまい、申し訳ありませんでした。ここで少し弁明をさせていただくと、私は忙しかったのです。合唱コンクール、あなたが見学なさったのはその練習でしたが、無事予選を通過してもう一つ上の大会に出られました。結局はその大会で終わりでしたが、私達は昼夜練習を積みました。そのせいで、いろいろ大変だったのです。だ。けどあなたのことは忘れてはいませんでしたそれに、あなたとご一緒した、あのすごく楽しかった時間も。
あなたは今……お元気でいらっしゃいますか?
この手紙を読める状態でいますか?
ちゃんと生きてらっしゃいますか?
何かあなたご自身が確かに信じられる物を、手に入れることは出来ましたか?
私はイギリスに慣れるために、あれから甘い物を食べる練習をしています。やはり嫌いな物は嫌いですが、がんばっています。
どうぞ、出来るだけ早くお返事を下さい。 かしこ
追伸 あなたの意見を聞きもしないで私のペンダントを入れましたが、汚辱が続くあいだ、どうぞ持っていて下さい。ペンダントの効果は、私なんかよりも、あなたの方が必要だと思いますので。弟も、そうした方が良いと言っていました。
ペンダントのことを話したら、弟も一言書きたいとのことです。弟はあなたを慕っているようです。お時間が出来次第、すぐにでもお返事を下さい。何より、早く帰って来て下さい。 絵美
こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは こんにちは
また じゅーすを ください ともき
Zは手紙を三回読み返すと、丁寧にたたんでポケットに入れた。それからペンダントを拾って、首にかけてみた。郵送の途中で鎖が切れたらしく、首からするりと落ちた。Zはカバンに原稿用紙と万年筆を入れて、それを持ってドアの前に立った。そして急激に約束を思い出す。彼女のために物語を書こう。読み終わった後にスッと眠たくなるような、そんな物語を書こう。そのためにはまず、自分をどうにかしなくてはならない。寂しさと悲しさだけに浸っていてはいけない。Zはあらゆる汚辱と戦い、あらゆる汚辱を受けるためにドアを開けた。