仕掛け絵本というものがある。開くと絵が飛び出してきたり、あるいは任意に開けられる扉がついている絵本のことだ。ここでは、前者を思い浮かべてもらえる方がいい。とにかく、普通の本とは違って視覚に強烈な印象を与えるのがこの仕掛け絵本と言うやつだ。なにしろ、二次元が三次元に変化するのだから、驚きは非常に大きい。
しかしながら、他の紙媒体もそうであるように、仕掛け絵本には重大な欠点がある。とはいえ紙媒体ならではの弱点でもあるのだが。それは強度である。仕掛け絵本が可変の形体であるため、どうしても磨耗を避けられない。あるいは強く開きすぎて一読目で破れてしまうこともある。
そんな仕掛け絵本を弟は好んで読んだ。ある時僕は、何を思い立ったか弟をさらに驚かせようとした。まだ三歳の子どもだった弟は、当たり前のことだが経験が浅くて、そのためか分からないが家族に付きまとっては質問の応酬をした。僕も例に洩れずされ続けた。子どもとはそういうものだ。だから僕は弟に、最大級の驚きを以って僕から遠ざけようとしたのだ。今ではそう思う。
何をするかはすぐに決まった。仕掛け絵本は三次元的でありながら、あくまで二次元である。傍目には大きく映る仕掛けも、実際それはぺらぺらの紙切れなのだ。だから。
本当に三次元の物質が出現すれば。
魔法使いの本のように。
弟はこれ以上ないくらいに驚愕を持って、世の中にある他の不思議なこと、もちろん弟の視点から見ればの話ではあるが、それらに関心を寄せることが少なくなるはずなのだ。幼児期をやり過ごすだけの短い効果期間ではあるが、僕はそれで充分だと思った。
さて、何をどうするかは決定したものの、どれを使用するかはまだ考え付いていなかった。本に挟めるような薄い物、それでいて紙以外となると、随分範囲が狭くなる。インパクトも必要だ。僕は手当たり次第に手に持って確かめた。しかしなかなかピンとくる物がなかった。のどが渇いたので何か飲もうと冷蔵庫を開けると、薄暗い中に似つかわしくない、そしてさっきまで僕の欲していた物が入っていた。
半透明のタッパーを開けると、中に入っていたものはレモンの砂糖漬けであった。薄くスライスされたレモンは溶けてシロップみたいになった砂糖に絡められて、見た目通り甘酸っぱい香りを漂わせていた。
僕はそれを一枚取り出し、タッパ―を丁寧に冷蔵庫にしまった。レモンからはシロップがどろどろと流れ出ていて、放って置くと手も服も床も汚れてしまうため、あわててティッシュで包んだ。水分がティッシュにじんわりと染み込んできて、仕方なくもう一枚使ってレモンを包んだ。
僕はレモンについた水分をふき取って、やっぱり一枚じゃ少ないと思いもう一つ用意して、弟のお気に入りの仕掛け絵本に挟みこんだ。しかし、異物が挟まった本は、閉じたときに違和感が残る。そのため僕は絵本を閉じたまま、上から手で押さえつけて平らにした。更に、絵本の上に別の絵本を重ねて、重ねて、慌ただしく潰し、またその上に絵本の山を築いた。否、山というより城であり、黒光りする要塞のようにも見えた。
一見、無秩序に積まれた絵本の山ではあるが、そこには僕にしか気付くことが出来ない秩序が確かに存在していた。全ての秩序は、たった一点、一番下の仕掛け絵本に挟まれたレモンのスライスに集約するのだ。そして他人がレモンに気付いたときには、全ての秩序は破壊された後なのだ。いや、慧眼な人間なら破壊の後でも気が付くかもしれない。しかし、少なくとも弟は違う。僕は一人悦に入り、しばらくそれを眺めていた。
不意に違うアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ僕をギョッとさせた。
それをそのままにしておいて僕は、何食わぬ顔をして外に出る。
僕は変にくすぐったい気持ちがした。「出て行こうかなあ、よし出て行こう」そして僕はすたすた出て行った。
変にくすぐったい気持ちが砂利道の上の僕を微笑ませた。弟の仕掛け絵本をベースにした要塞に黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた犯人が僕で、もう十分後には僕の家が要塞を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。
僕はこの想像を熱心に追究した。「そうしたらあの弟から離れられるだろう」
そうして僕は派手な色の遊具が並ぶ、ここら唯一の公園へ駆けていった。